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記事一覧

小幡氏が奉納した菅原神社の鰐口

武田勝頼公と北条夫人(桂林院殿)との結婚で甲相同盟が強化されたことに関して、1577(天正5)年3月27日に西上野国衆小幡信貞が菅原神社(→群馬県富岡市)に鰐口を奉納しています。鰐口とは神社の賽銭箱上方の社殿に吊るされている金属製の体鳴楽器(→カーンと鳴らすアレ)のことで、神仏習合の時代の寺院・神社の多くは仏堂軒先に吊るされていました。小幡信貞が奉納した菅原神社の鰐口には、次のような銘文が刻まれています。源勝頼懇情...

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武田勝頼公は隠居していたという説について

武王丸の元服と御隠居様勝頼 武田勝頼公が織田信長との和睦交渉を行う際に、嫡子信勝に家督を譲り、隠居していたということを最初に唱えたのは丸山和洋氏で、その後、平山優氏も『武田氏滅亡』などでこの説を積極的に支持しました。ところが、丸山氏はその後『武田勝頼』などでこの説を撤回してしまったため丸山氏の説ではなくなりましたが、私は少なくとも平山優氏が支持するに示した根拠に同意できるので、勝頼公が織田氏との和...

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高野山成慶院に宿坊を定める

宿坊を定める 1568(永禄11)年年11月1日、高遠城主時代の諏方勝頼公は高野山成慶院(→和歌山県高野山町)を高遠領の高野山宿坊とし、「高遠領の貴賤、この已然に高野山に宿坊無き仁、向後は成慶院へ寄附せしむ」(「桜池院所蔵文書」)と定めました。高遠領の住民が高野山に参詣する際に、宿舎を持っていなければ身分の高下に関係なく、これから後には成慶院に宿泊するようにと命じたのです。高野山成慶院は1560(永禄3)年7月13日に信玄...

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太方様(武田勝頼公の祖母)について

勝頼公の祖母(→太方様)の手紙諏方(武田)勝頼公の母である諏方御料人(→諏方頼重息女)は1555(弘治元)年11月6日に、勝頼公10歳の時に24歳の若さで亡くなりましたが、彼女の母親(→勝頼公の母方祖母)は、武田氏が滅亡する1582(天正10)年3月まで足跡が記録されています。勝頼公の祖母は、信濃国守護小笠原長時の家臣である「麻績(おみ)氏」の出と言われていますが、笹本正治氏は小笠原氏の勢力範囲から考察して麻績氏ではなく現在の長野...

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武田勝頼公の官途について

「愚息四郎に官途と御一字を賜りたい」 武田信玄が勝頼公を正式に高遠城主から自らの後継者として甲府に呼び寄せた明確な時期は定かではありませんが、1571(元亀2)年のことと推定されています。北条氏は、1570(元亀元)年8月12日の段階では勝頼公を「伊奈四郎」(→「尊経閣文庫所蔵文書」『戦北』一四三五号)と認識しているので、武田氏に入ったのはその後ということになります。諏方郡の領主「諏方勝頼公」から甲斐武田氏の後継者...

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「信玄堤」は本当に武田信玄が築いたのか

記録にない信玄堤甲斐国(→山梨県)は周囲を高い山々に囲まれているため、大雨が降ると山の水が甲府盆地に流れこみ、大きな被害を受けていました。特に赤石山脈(→南アルプス)から御勅使川(みだいがわ)の流れが東に直進し、信濃国(→長野県)と甲斐国の国境付近から水を集めて南下してくる釜無川(かまなしがわ)と合流するあたりで、氾濫が頻発し、大きな水害をもたらしていました。定説では、武田信玄が御勅使川の流れを上流の「石積出...

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勝頼公の「温泉裁判」

勝頼公の裁判例 江戸時代の1626(寛永3)年、信州筑摩郡小池村(→長野県松本市)に住む草間三右衛門という人物が、武田氏の統治時代を思い出して記録した文書の中に、武田勝頼公による公平な裁判例についての記述があり、笹本正治氏が発表しているので概要を紹介します。争点は「山争論」なのですが、発端は1580(天正8)年4月に内田(→松本市・塩尻市)領主で武田一族の桃井将監(しょうげん)が、小池村の郷民に対して内田山に入ることを...

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新府城と武田勝頼公3

新府城の実態 勝頼公が古府を廃して移り住んだ新府城は、実際には完成してはいませんでした。『甲陽軍鑑』に「半造作」とあるように、本丸や三の丸は削平が完全になされていない部分や、土塁と虎口にも普請が途中であった状況が指摘されています(『日本城郭体系』『図説中世城郭事典』)。とりわけ、『甲陽軍鑑』の記述に「半造作にて更に人数百と籠へき様無之」とあり、とても籠城できる状況ではなかったというのです。現在の進行...

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新府城と武田勝頼公2

領国中の位置 新府韮崎が甲斐国の府中であったのは正味2カ月で、勝頼公が新府城にいたのは足かけわずか43日に過ぎません。それほど短期間しか住まなかった新府城を、なぜ勝頼公は多くの人足と資金を費やして韮崎に築いたのか、無理をして築いたことによって人心と財力を失ったのが武田氏滅亡の原因だという研究者や山梨県民の声は、いまだに根強いように思います。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。 新府城の位置(...

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新府城と武田勝頼公1

新府城と武田勝頼公 1999(平成11)年11月7日、韮崎市教育委員会・史跡新府城跡保存整備委員会の主催で「戦国の浪漫 新府城―ふるさとの城を語ろう」と題したシンポジウムが開催されました。私も拝聴者の一人としてそこにおりました。柴辻俊六氏はこの講演においても「この時期における新府城の築城は評価すべき点が少なく、むしろ従来から言われているように、無謀な新規事業であって武田家滅亡を早める要因の一つとなったとの評価...

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北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君7―

北条夫人の最期 武田勝頼公一行は7日間も待たされた挙句、迎えの準備と称して先に郡内岩殿城(→大月市)に入った小山田信茂は「謀叛」を起こし、岩殿へ続く笹子峠を封鎖しました。勝頼公は田野村(→甲州市)に入り、少数の側近とともに追撃してきた織田勢を前に奮戦することになります。しかしもはや助かる術はなく、自害を決しました。勝頼公は重臣安西有味・秋山紀伊守を19歳の北条夫人のところに遣わし、次のように伝えたといいま...

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北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君6―

新府城を出ての逃避行 武田勝頼公は1582(天正10)年2月28日に新府城に帰還し、戦線の再構築をはかります。勝頼公の期待は、実弟の仁科盛信(→この時期は信盛と改名している)が守る信濃伊那郡高遠城(→伊那市)が、しばらく敵を防いでくれるだろうから、その間に防備を固めようというものだったようです。ところが、3月2日、高遠城は壮烈な戦闘の末にわずか1日で落城し、勝頼公をはじめ武田氏重臣は動揺を隠せなくなりました。 当初の...

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北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君5―

北条夫人願文 1581(天正9)年12月24日、北条夫人は勝頼公に従って甲府を離れ、武田氏の新しい本拠地である新府城(→韮崎市)に入りました。しかし、ここで運命は急転します。織田信長が徳川家康など同盟国を動員して武田攻めを号令したため甲斐武田氏が滅亡の時を迎えるのです。 武田氏滅亡を間近に控えた1582(天正10)年2月19日、北条夫人は「ミなもとのかつ(勝)頼うち(内→内室)」という署判で、勝頼公の勝利と子孫繁栄を願う願...

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北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君4―

実家北条氏との対立 勝頼公と北条夫人の幸せな生活も、1578(天正6)年3月13日に越後で上杉謙信が急逝したことで事態が一変しました。上杉氏の家督は、謙信の養子で甥の上杉景勝が嗣ぎましたが、反対派の勢力がもうひとりの養子上杉景虎を担いで御家騒動(→御館の乱)を起こしたのです。景虎は北条氏政の弟で、北条氏と上杉氏が同盟した際に謙信の養子となった人物です。つまり、北条夫人の異母兄にあたります。 御館の乱の勃発当時...

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北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君3―

快川紹喜の北条夫人評 北条夫人の人柄を讃えた言葉に、「芝蘭」「淑女是君」「甲州城上淑女君」が伝わります。これは身延町下山南松院旧蔵文書の『蘭渓字説』の一節にあり、1580(天正8)年7月に、躑躅ケ崎館(→武田氏の政庁)を訪れた恵林寺(甲州市)の快川紹喜国師が、16歳の北条夫人から法諱と雅号を授けていただけるように懇願され、快くこれに応じたことによります。快川国師はその時の北条夫人の印象を次のように描写しています...

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北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君2―

諏訪下社秋宮千手堂落慶供養 1577(天正5)年3月3日、諏訪下社の本地仏を安置した秋宮千手堂の堂舎及び三重塔の落慶供養の法会が行われました。長い戦乱で仏堂が荒廃していたのを勝頼公が再興を命じ、上巳の節句(→雛祭り)に、盛大な落慶供養が行われたのです。財源の一切を受け持った願主は、諏方の春芳軒という御用商人です。春芳軒は、信玄が諏訪社下社神長官に宛てた1570(元亀元)年9月23日付の書状にも「春芳代官」とあり、町人...

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北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君1―

北条夫人(桂林院殿)は関東の大大名北条氏政の妹で、1564(永禄7)年に北条氏康の6女として生まれ、武田勝頼公に継室として嫁げました。母は家老松田憲秀の娘(→松寿院殿)といわれています。勝頼公と最後まで行動を共にした夫人です。この記事では以下北条夫人と記します。輿入れの時期については、『北条五代記』『甲陽軍鑑』とも1577(天正5)年で一致しており、『小田原編年録』は同年1月22日と詳しい日付まで記している。 ただし、...

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勝頼公と北条夫人(桂林院殿)の婚姻2

中世、諏訪という字は「諏方」と書いたのですが、勝頼公と北条夫人の約7年という短い結婚生活の中で、確かな幸せの証として史料上にも登場するのが「諏方下社秋宮千手堂落慶供養」といえるのではないでしょうか。1577(天正5)年3月3日、諏方下社の本地仏を安置した秋宮千手堂の堂舎及び三重塔の落慶供養の法会が行われました。長い戦乱で仏堂が荒廃していたのを勝頼公が再興を命じ、上巳の節句(→雛祭り)に、盛大な落慶供養が行われ...

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勝頼公と北条夫人(桂林院殿)の婚姻1

北条夫人(桂林院殿)は北条氏政の妹で、1564(永禄7)年に北条氏康の6女として小田原で生まれ、武田勝頼公の継室として嫁ぎました。母は北条氏家老松田憲秀の娘(→松寿院殿)といわれています。1582(天正10)年3月11日の甲斐武田氏滅亡に際して、最後まで勝頼公と運命を共にした夫人です。実名は不明なため、歴史学では「桂林院殿」と記されることが多いですが、このブログでは一般的に知られる「北条夫人」で統一します。北条夫人の輿入...

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遠山夫人(龍勝院殿)について

勝頼公の最初の正室  織田信長は1565(永禄8)年9月9日に家臣の織田忠寛を使者として甲府に派遣し、婚姻を基盤とした武田氏との同盟締結を正式に申し入れたとみられます。その実態は、高遠城主諏方勝頼公(→信玄四男)のもとへ、信長の養女(→遠山直廉息女、信長の姪)を輿入れさせるというものでした。武田信玄は、上杉謙信との抗争が止まないなか、信濃・美濃国境での懸念を解消させることに大きな意義を認め、信長との同盟締結...

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プロフィール

武蔵守

Author:武蔵守
心から敬愛する武田勝頼公とその妻北条夫人(桂林院殿)を顕彰するブログです。死後、信長に「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公と恵林寺快川国師より「芝欄」と称えられた北条夫人を歴史学の立場から贔屓なく顕彰したいと思います。

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羅針盤ゼミナールで日本史専門講座「北条塾」を主宰。当塾のお勉強ブログ「子孫が語る鎌倉北條氏の真実」と当塾公式ブログ「らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~」も執筆中です。よろしくお願い致します。

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