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勝頼公、木曾義昌を警戒す

勝頼公、木曾義昌を警戒す 現在でも弔問外交という言葉があるが、武田勝頼公は父信玄の葬儀に伴い、武田氏一族や重臣層を甲府に招集した。長篠合戦で生き残った人々が初めて一堂に会する場となったのである。この時、勝頼公は、天正4年(1574年)4月3日付で木曾義昌の家臣団に対し起請文の提出を命じている(『戦武』二六二九号)。 この起請文は全7カ条で構成されている。内容を要約すると、次のようになる。(1)武田勝頼公と...

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父信玄の葬儀➁

葬儀の執行 いずれにせよ信玄の遺骸は、甲府で荼毘に付されたと推察され、その後遺骨は再び躑躅ケ崎館に戻り、七仏事が執行された。確実な記録に残されているのは、初七日(4月16日執行、円蔵院〈穴山武田信友菩提寺〉桂岩徳芳香語)、二七日忌(4月16日執行、鉄觜道角)、三七日忌(4月19日執行、普同庵〈恵林寺塔頭〉末宗瑞曷)、四七日忌(4月20日執行、駿河清見寺大輝祥暹)、五七日忌(不明)、六七日忌(4月22日執行、龍門...

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父信玄の葬儀➀

葬儀に向けた準備 三河・遠江反攻計画を挟んだ時期にあたる天正4年(1576)4月、勝頼公は亡父信玄の葬儀を挙行し、その喪を正式に発することとした。葬儀の準備は正月から開始され、当初は2月に行われる予定であったらしい。だが諸事情から、命日前後にずれ込むこととなったようだ。 ところで信玄の葬儀に関しては、「天正玄公仏事法語」(県内記録七号)、「快川和尚法語」、「鉄山集」(県外記録一四三・一四四・一五〇・一五...

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勝頼公、三河・遠江での反攻を企図す

勝頼公、三河・遠江での反攻を企図す 波乱の天正3年が暮れ、明けて天正4年(1576)、勝頼公は前年以来宣言していた三河への侵攻を実施しようと考えた。そのため、海津城代春日虎綱を信濃・三河国境に配備して、織田・徳川方の動向を監視させ、あわせて侵攻のタイミングをうかがっていた。春日虎綱が海津城を空けることが可能であったのは、上杉謙信が織田・徳川両氏に呼応して北信濃に侵攻する懸念が解消されていたからであろう(...

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国境諸口の防備

国境諸口の防備 前回に続き保科正俊宛勝頼公書状より、国境諸口の防備指示についてみてみよう。勝頼公は、伊那郡内の主要城郭に備えや人質などに関する指示を出すと、次に国境各口の防衛のための指令を列挙している。まず重視されたのが信濃・美濃国境の妻籠城の防衛である。織田軍が岩村方面から侵攻した場合に、妻籠城が最初に攻撃を受ける懸念が高かったからである。その在番については、松尾小笠原衆が配備され、とりわけ重要...

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勝頼公、信濃防衛策を指示す

勝頼公、信濃防衛策を指示す 勝頼公は、天正3年(1575)8月10日に保科筑前守正俊に28カ条にも及ぶ長文の指令を出し、信濃防衛のための軍勢配備を命じた(『戦武』二五一四号)。この文書は、長らく元亀3年(1572)の武田信玄が西上作戦を展開するにあたって出した命令と考えられてきたが、最新の研究により天正3年8月、武田勝頼公が長篠敗戦と岩村城攻防戦の発生や、伊那坂西一族の謀叛などへの対応と、遠江への出陣を前に信濃防...

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武田勝頼公の信濃防衛計画

勝頼公の織田・徳川領国反攻計画 武田勝頼公が三河長篠で大敗したとの情報は、すぐに諸国に広まった。だが、武田軍が撃破されたことを疑う者もいたようだ。奈良の多門院英俊は天正3年(1575)5月24日に、長篠で武田軍が大敗したとの情報に接し「実否沙汰」と記した(『多門院日記』)。英俊は情報が事実か訝(いぶか)しがみ、周囲の人々も精度について噂しあったようだ。だが27日になって詳細が判明し、援軍として織田軍に派遣され...

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足利義昭の甲相越三国和睦構想

戦国のオルガナイザー足利義昭 戦国時代の帰趨を決定した元亀・天正争乱において、織田信長に対抗する諸戦国大名を結びつけるオルガナイザーの役割を果たし、結集核となったのが、室町幕府最後の将軍足利義昭である。義昭は、石山本願寺、近江国浅井長政、越前国朝倉義景らと結び、さらに元亀4年(1573)4月には武田信玄とも連携を図った。この結果、形成されることになったのが信長包囲網である。 しかし、元亀4年4月に、武田軍...

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岩村城落城

岩村城落城 信濃から派遣された夜襲隊は、武田勝頼公が派遣した後詰とみて間違いないが、それでは勝頼公本隊はどうしていたであろうか。武田勝頼公が、本隊を率いて後詰に出陣したのは事実である。遠江小山城、高天神城の救援と徳川軍の撃退に成功した勝頼公は、10月には甲斐に帰還しており、引き続き今度は岩村城に出陣しようとしたらしい。この時期、岩村城を織田信忠軍、二俣城を徳川家康軍に包囲されていた。武田氏は、甲斐・...

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追い詰められる岩村城

追い詰められる岩村城 織田信忠軍は、頑強に抵抗する岩村城を容易に陥落させることができなかった。しかし、要害を恃んで持ちこたえているとはいえ、岩村城籠城衆も後詰がなければ落城しか道がない。そのため、甲斐の武田勝頼公にしばしば援軍の催促に及んでいた。勝頼公は、急ぎ新たな将卒の募集を行い、軍勢を整えることに腐心していたが、その兵力の量的かつ質的低下は深刻であった。 また6月から三河・遠江では徳川軍の反攻...

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坂西一族の謀叛、上杉謙信との和睦

信長の武田方国衆調略 織田信忠・佐久間信盛の美濃、奥三河侵攻は、境界を接する信濃国木曾・伊那両郡の武田方国衆に動揺をもたらした。勝頼公は、木曾氏の離叛を食い止めるため、7月13日に木曾郡国衆木曾義昌(勝頼公の義弟、信玄の娘婿)の重臣山村七郎右衛門尉良利(よしとし)に判物を送り、永年にわたる武田氏への協力を賞し、信濃国手塚(長野県上田市)で知行を与え、木曾谷の諸士を取りまとめ義昌に無二の奉公をするよう求...

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武節城落城、東美濃の武田領崩壊危機

織田信忠と佐久間信盛の美濃・奥三河侵攻 話をやや戻して、天正3年(1575)長篠合戦直後における東美濃の情勢に転じよう。長篠敗戦を契機に、織田・徳川軍の反抗は厳しくなった。特に本拠地三河の北部を勝頼公に席巻されていた徳川家康は、執拗な追撃戦を実施した。信長も家康も、信濃まで武田軍の追撃を主張する諸将の意見を退け、信濃・三河国境までの掃討戦は許可したらしい。 長篠合戦の直後、家康はなおも長篠に留まり、田...

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二俣城開城す

二俣城開城す 勝頼公は、遠江への大規模な反攻を宣言していたにもかかわらず、小山城の後詰と高天神城への補給を行ったのみで、徳川軍に付城を構築され、重囲に陥っていた二俣城の救援などはまったく実施できないまま終わった。にわか仕立ての新生武田軍は質的低下が著しく二俣城救援までとても行ける装備・編制ではなかった。それでも二俣城将依田信蕃は、父信守病没後も頑強に抵抗を続けていたが、兵粮が乏しくなり苦境に陥った...

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勝頼公、新生武田軍を率い遠江に出陣す

勝頼公、遠江に出陣す 徳川家康は、諏方原城攻略(攻略後は牧野原城と改名)の勢いに乗り、小山城への攻撃を開始した。徳川軍の小山城攻撃は、天正3年(1575)8月28日から始まったらしい(『当代記』等)。ここを守備していた城将は岡部丹波守元信であり、のちに高天神城を3年にわたって守り抜き戦死した武将である。徳川軍の諸将のなかには、織田信長に援軍を要請したうえで攻めるべきだと諫言した者もいたが、家康はこれを聞き...

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遠江諏方原城の陥落

遠江諏方原城の陥落 かくて家康は、浜松城に対する武田方の拠点の動きを封じ込めると、今度は軍勢を東に向け、徳川方懸川城と正対する武田方の要衝諏方原城の攻撃に着手した。家康は、諏方原城と小山城をともに奪取する作戦を企図していたといわれ、その真の目的は高天神城の奪還にあった。諏方原・小山両城を陥落させれば、高天神城は補給と増援の手段を失って徳川領内に孤立することとなり、容易く「蒸シ落シ」にすることが可能...

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徳川家康の反抗

家康の駿河侵攻 長篠合戦終了からわずか6日後の天正3年(1575)5月27日、徳川家康は兵馬を休めることなく、ただちに遠江・駿河の武田領へ侵攻した。これは、長篠での痛手から武田軍が立ち直れず、組織的な反撃ができないことや、武田勝頼公が信濃国に在城し、戦後処理にあたっていて、とても駿河・遠江に手が回らないことを見越した作戦であった。 家康は、軍勢を懸川から駿河に侵攻させ、駿府に乱入したのち、清見寺の関所付近...

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プロフィール

広報官 西住さほ

Author:広報官 西住さほ
日本史専門塾
 羅針盤ゼミナール
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会長  北條時雨
広報官 西住さほ 
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心から敬愛する武田勝頼公とその妻北条夫人(桂林院殿)を顕彰するブログです。死後、信長に「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公と恵林寺快川国師より「芝欄」と称えられた北条夫人を歴史学の立場から贔屓なく顕彰したいと思います。

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羅針盤ゼミナールで日本史専門講座「北条塾」を主宰。当塾公式ブログ「らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~」と趣味ブログ「子孫が語る鎌倉北條氏の真実」も執筆中です。よろしくお願いします。

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