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武田勝頼公は隠居していたという説について

武王丸の元服と御隠居様勝頼
 
武田勝頼公が織田信長との和睦交渉を行う際に、嫡子信勝に家督を譲り、隠居していたということを最初に唱えたのは丸山和洋氏で、その後、平山優氏も『武田氏滅亡』などでこの説を積極的に支持しました。ところが、丸山氏はその後『武田勝頼』などでこの説を撤回してしまったため丸山氏の説ではなくなりましたが、私は少なくとも平山優氏が支持するに示した根拠に同意できるので、勝頼公が織田氏との和睦交渉の際に隠居していたとしても不思議ではないと考えます。

佐竹義重を仲介とする「甲江和与」交渉が開始されてまもない1579(天正7)年11月16日、駿河に在陣して北条氏政と対陣中の勝頼公は、甲府に十四カ条に及ぶ覚書を遣わし、留守居役を統括する重臣跡部勝忠に指示を出しています(戦武三一九四号)。この一節に「一 武王元服之祝言、支度之事、付、吉日之事」とあります。勝頼公は、嫡男武王丸(→信勝)を元服させることにしたのです。この時、武王丸は13歳。元服の正確な時期は、史料がなくまったくわからりません。しかし、勝頼公が駿河から帰陣してまもなくの12月には元服式が行われ、武田太郎信勝になっています。以前ご紹介しました「武田勝頼・同夫人・信勝像」(高野山持明院蔵)は信勝の髪型からして元服直前にに描かれたものであることが分かります。

信勝元服  
武田信勝の元服(画像提供:NHK)

 

武田信勝が表舞台に登場した1579(天正7)年末から1580(天正8)年にかけて、武田家中では目まぐるしい変化が指摘されています。それは、武田一族や重臣の官途、受領が一斉に変更されていることからも明らかです。その事例は枚挙に暇がないほどですが、

・武田左馬助信豊→相模守信豊
・小山田左衛門大夫信茂→出羽守信茂
・穴山玄蕃守信君(君は「ただ」と読む)→陸奥守信君
・春日源五郎信達→弾正忠信達
・山県源四郎昌満→三郎右兵衛尉昌満
・跡部大炊助勝資→尾張守勝資
・跡部美作守勝忠→越中守勝忠
・桜井右近助信忠→安芸守信忠
・長坂五郎左衛門尉昌国(釣閑斎の子)→筑後守昌国
・内藤修理亮昌月→大和守昌月
・今福市左衛門尉昌和(今福長閑斎の子、諏方郡代)→筑前守昌和
・今福新右衛門尉昌常(長閑斎の子、昌和の兄弟)→和泉守昌常
・曾根内匠助昌世→下野守昌世
・真田喜兵尉昌幸→安房守昌幸
などです。

 
官途変更 
真田安房守昌幸と穴山陸奥守信君(画像提供:NHK)

 

この事実を初めて証明したのは、服部治則氏(1972年)ですが、それではなぜ1579(天正7年)末から同1580(天正8)年初頭にかけて、武田一族や重臣に新たな受領、官途が与えられたのかは明らかにされてきませんでした。しかし、武田家中における受領、官途の一斉変更は、武田太郎信勝の元服と密接に関わると考えられると指摘されます。それでは、なぜ勝頼公はこの時期に信勝元服と、武田家中の刷新を図ったのでしょうか。

このことについて重要なのは、1580(天正8)年2月19日、新宮昌忠・村岡大夫に宛てた跡部尾張守勝資書状にあります(戦武三二五二号)。この文書は、駿河府中浅間社の神官新宮昌忠村岡大夫が、武田氏のもとに書状を送り、様々な申し立てをしたことへの返書にあたります。
新宮らの申し立ては、①神事の諸道具について、武田氏の命令で整えるよう指示が出されているのに、いまだでき上っていないこと、②来る三月会の神事御頭役の謹仕について、その実現を求めたこと、③去年の大段銭の催促について援助を求めたこと、などです。

 

跡部勝資は、①は事実関係をただして催促したところ、近日でき上がるとのことなので安心されたい、③については、穴山信君(のぶただ)に相談し、その助力を得て催促すること、などと返答しています。問題なのは、②の部分です。それによると、駿河府中浅間社の三月会御頭役に「御屋形様」が当たっていると、新宮らは申請したらしいのです。驚いた跡部は、関東から帰陣したばかりの勝頼公にそのような事実があるのか内々に尋ねたところ、そうした覚えはないとの返答だったといいます。困惑した跡部は、「御隠居様御代」にもそうした先例があったか調査するよう求め、もし事実ならば負担する用意があると報じています。

 

跡部勝資 
跡部勝資(画像提供:NHK)

 

ここに登場する「御屋形様」と「御隠居様」について、丸島和洋氏は時期的にみて前者を勝頼公、後者を信玄とみなすことは難しく、御屋形様=太郎信勝御隠居様=勝頼公ではないかと指摘しました(2004年)。平山優氏もこれは卓見であるとこれを支持したのですが、丸山氏はその後、この説を撤回されました。
しかし、勝頼公が1579(天正7)年末の信勝元服に伴い、家督を彼に譲り隠居したと考るのは辻褄が合うことがあります。まず、受領・官途の一斉変更など家中の刷新は、他国の例を見ても家督が変わった時など政治的動向を踏まえて実施されることが多いのです。ただし、その後の武田氏の動向や文書を追跡してみると、信勝が新屋形として政治、軍事を主導した形跡はなく、依然として勝頼公がすべてを掌握しています。なので、信勝の家督相続は形式的かつ象徴的な意味にとどまり、実権は父の勝頼公が握っていたと思われます。それは信勝がまだ11歳という若年であったこともあり、勝頼公が引き続き政権を担ったのだと思われます。


勝頼公隠居の背景
それでは、なぜ勝頼公は、信勝の元服、家督相続、家中の刷新という儀式を行わねばならなかったのでしょうか。それは織田信長との和睦交渉である「甲江和与」交渉の開始に伴う、勝頼公による信長にむけたシグナルであったと平山氏は指摘します。信勝の生母龍勝院殿(→遠山直廉娘)は、織田信長の養女であり、信玄時代に武田・織田同盟(甲尾同盟)の証として高遠城主の勝頼公に輿入れしてきた経緯がありました。
つまり、信勝は織田氏との繋がりが強い人物であるわけです。そのため、信長と激しく対立してきた勝頼公が武田氏の当主(屋形)のままでは「甲江和与」交渉に影響が出ると判断した武田氏が、織田氏の女性を生母に持つ信勝を新屋形に据えることで関係改善を真摯に望んでいることをアピールしようとしたというのです。 武田氏のこの動きは、北条氏政の隠居と氏直への家督継承とまったく同じ動機にもとづくものと考えられます。武田氏はいつの時代も小田原の北条氏を「手本」にしている部分が多分にあるので、御館の乱をきっかけに武田北条両氏は戦争状態になりましたが、武田氏が北条氏の外交政策を参考にしたことは十分に考えられます。

武田・北条両氏ともに、織田氏との関係確立に向けて新たな当主確立を図ったという所は皮肉なことです。
そして「甲江和与」交渉の切り札としていたのが甲府に織田氏から人質として預かっていた織田源三郎の存在であった。「甲江和与」交渉については改めて記したいと思いますが、1579(天正8)年末から1580(天正8)年初にかけて勝頼公が家督を嫡子信勝に譲り、「御隠居様」となっていたことはありえることだと思います。



 (参考・引用:平山優『武田氏滅亡』、丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団』『武田勝頼』、笹本正治『武田勝頼』、上野晴朗『定本武田勝頼』)

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武蔵守

Author:武蔵守
心から敬愛する武田勝頼公とその妻北条夫人(桂林院殿)を顕彰するブログです。死後、信長に「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公と恵林寺快川国師より「芝欄」と称えられた北条夫人を歴史学の立場から贔屓なく顕彰したいと思います。

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羅針盤ゼミナールで日本史専門講座「北条塾」を主宰。当塾のお勉強ブログ「子孫が語る鎌倉北條氏の真実」と当塾公式ブログ「らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~」も執筆中です。よろしくお願い致します。

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