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小幡氏が奉納した菅原神社の鰐口

武田勝頼公と北条夫人(桂林院殿)との結婚で甲相同盟が強化されたことに関して、1577(天正5)年3月27日に西上野国衆小幡信貞菅原神社(→群馬県富岡市)に鰐口を奉納しています。鰐口とは神社の賽銭箱上方の社殿に吊るされている金属製の体鳴楽器(→カーンと鳴らすアレ)のことで、神仏習合の時代の寺院・神社の多くは仏堂軒先に吊るされていました。
小幡信貞が奉納した菅原神社の鰐口には、次のような銘文が刻まれています。

源勝頼懇情追日倍増、喜悦累月出来皆満足せしめ、怨敵滅却住所安泰、七難則滅、小幡一門息災延命

口語訳します。
武田勝頼公が北条氏と血縁同盟を結び、皆で喜ぶこと数カ月に及び満足している。怨敵(→織田・徳川氏など)の滅亡、武田領国の安泰、七難(→火難・水難・悪霊など7つの災い)の除去、小幡一族の繁栄を祈ります。

独立した所領を治め独自の家中(→家臣団)を有する国衆が戦国大名に従っている理由は、その強大な軍事力の保護を受けて自身の領国を守ることにあります。国衆が従属先の戦国大名の「軍事的安全保障体制」に留まるか、離反するかは、戦国大名が国衆の領国を守ってくれるか否かにかかっています。その信頼関係の上に戦国大名の版図は変動するのです。戦国時代の合戦とはいわば国衆の奪い合いという側面があると黒田基樹氏は指摘します。

国衆は譜代家臣とは立場が異なり外様の存在です。国衆小幡氏の視点からすれば、自家を保護してくれる軍事力を武田氏が保持し続けて、さらに強大な北条氏との同盟強化によって自領と境界を接する北条方の有力国衆との境界紛争の懸念が解消されたことが一番の喜びであったことでしょう。鰐口の奉納には、そんな小幡信貞の思いが感じとれます。

【菅原神社】
菅原神社(群馬県富岡市)

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コメント

小幡氏も忠臣ですよね?

確か木曽氏が信用できないから小幡氏と領地を取り替えするような注進がありましたよね?

Re: 小幡氏も忠臣ですよね?

コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、『甲陽軍鑑』によると小幡信貞は木曾義昌が離反する動きを察知し「木曾家を上州に、小幡家を木曾に」と進言したとあります。 

ただ、木曾氏と小幡氏では軍事力が釣り合わないので、上州で北条氏と激戦を繰り返していた1580(天正8)年頃に上州から小幡氏の軍事力を抜くことはできなかったでしょうね。また、木曾義昌は国衆なので武田氏の譜代家臣ではないため、勝頼公といえども転封命令を出すことはできなかったです。出したら、即木曾氏は織田氏に臣従を申し出たでしょうし、小幡氏も国衆なので転封を望んでいたとは思えません。

おそらく『甲陽軍鑑』の作者(小幡氏)が自分の家の忠臣ぶりを顕彰するために創作したものと思われますが、いずれにせよ小幡氏は西上野で最大の軍事力を誇る武田氏の上州統治には欠かせない勢力だったことは確かです。

小幡信貞

小幡信貞って長篠の戦いで死んだんじゃなかったっけ?

Re: 小幡信貞

コメントありがとうございます。
長篠合戦で討死したのは信貞の弟(→小幡信定)です。『信長公記』には「上州の朱武者は馬上巧者」と小幡勢の奮戦ぶりを評価してます。よほど強く印象に残ったのでしょうね。なお、小幡信貞は武田氏滅亡後に、箕輪城代の内藤昌月(まさあき)とともに織田信長に従属を申し出て本領安堵されています。本能寺の変の後は北条氏直に仕え、小幡信貞にいたっては小田原合戦では小田原城に籠城したほどです。江戸時代になると小幡氏の本領は徳川方の井伊直政に奪われ、国衆としての小幡氏は滅亡します。彼らは旧知の真田昌幸を頼り、小幡信貞は晩年を上田で迎えています。

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プロフィール

武蔵守

Author:武蔵守
心から敬愛する武田勝頼公とその妻北条夫人(桂林院殿)を顕彰するブログです。死後、信長に「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公と恵林寺快川国師より「芝欄」と称えられた北条夫人を歴史学の立場から贔屓なく顕彰したいと思います。

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羅針盤ゼミナールで日本史専門講座「北条塾」を主宰。当塾のお勉強ブログ「子孫が語る鎌倉北條氏の真実」と当塾公式ブログ「らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~」も執筆中です。よろしくお願い致します。

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