コメント
小幡氏も忠臣ですよね?
確か木曽氏が信用できないから小幡氏と領地を取り替えするような注進がありましたよね?
Re: 小幡氏も忠臣ですよね?
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、『甲陽軍鑑』によると小幡信貞は木曾義昌が離反する動きを察知し「木曾家を上州に、小幡家を木曾に」と進言したとあります。
ただ、木曾氏と小幡氏では軍事力が釣り合わないので、上州で北条氏と激戦を繰り返していた1580(天正8)年頃に上州から小幡氏の軍事力を抜くことはできなかったでしょうね。また、木曾義昌は国衆なので武田氏の譜代家臣ではないため、勝頼公といえども転封命令を出すことはできなかったです。出したら、即木曾氏は織田氏に臣従を申し出たでしょうし、小幡氏も国衆なので転封を望んでいたとは思えません。
おそらく『甲陽軍鑑』の作者(小幡氏)が自分の家の忠臣ぶりを顕彰するために創作したものと思われますが、いずれにせよ小幡氏は西上野で最大の軍事力を誇る武田氏の上州統治には欠かせない勢力だったことは確かです。
おっしゃる通り、『甲陽軍鑑』によると小幡信貞は木曾義昌が離反する動きを察知し「木曾家を上州に、小幡家を木曾に」と進言したとあります。
ただ、木曾氏と小幡氏では軍事力が釣り合わないので、上州で北条氏と激戦を繰り返していた1580(天正8)年頃に上州から小幡氏の軍事力を抜くことはできなかったでしょうね。また、木曾義昌は国衆なので武田氏の譜代家臣ではないため、勝頼公といえども転封命令を出すことはできなかったです。出したら、即木曾氏は織田氏に臣従を申し出たでしょうし、小幡氏も国衆なので転封を望んでいたとは思えません。
おそらく『甲陽軍鑑』の作者(小幡氏)が自分の家の忠臣ぶりを顕彰するために創作したものと思われますが、いずれにせよ小幡氏は西上野で最大の軍事力を誇る武田氏の上州統治には欠かせない勢力だったことは確かです。
小幡信貞
小幡信貞って長篠の戦いで死んだんじゃなかったっけ?
Re: 小幡信貞
コメントありがとうございます。
長篠合戦で討死したのは信貞の弟(→小幡信定)です。『信長公記』には「上州の朱武者は馬上巧者」と小幡勢の奮戦ぶりを評価してます。よほど強く印象に残ったのでしょうね。なお、小幡信貞は武田氏滅亡後に、箕輪城代の内藤昌月(まさあき)とともに織田信長に従属を申し出て本領安堵されています。本能寺の変の後は北条氏直に仕え、小幡信貞にいたっては小田原合戦では小田原城に籠城したほどです。江戸時代になると小幡氏の本領は徳川方の井伊直政に奪われ、国衆としての小幡氏は滅亡します。彼らは旧知の真田昌幸を頼り、小幡信貞は晩年を上田で迎えています。
長篠合戦で討死したのは信貞の弟(→小幡信定)です。『信長公記』には「上州の朱武者は馬上巧者」と小幡勢の奮戦ぶりを評価してます。よほど強く印象に残ったのでしょうね。なお、小幡信貞は武田氏滅亡後に、箕輪城代の内藤昌月(まさあき)とともに織田信長に従属を申し出て本領安堵されています。本能寺の変の後は北条氏直に仕え、小幡信貞にいたっては小田原合戦では小田原城に籠城したほどです。江戸時代になると小幡氏の本領は徳川方の井伊直政に奪われ、国衆としての小幡氏は滅亡します。彼らは旧知の真田昌幸を頼り、小幡信貞は晩年を上田で迎えています。